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【ぶらり散歩2007】・・・2007年に書いたものです。

ごゆっくりどうぞ・・・※日記は新しい順になっています




ー 九里半街道熊川宿へ寄り道 −

JR 『近江今津』 駅〈 バス 〉−道の駅『若狭熊川宿』・・・熊川宿散策 【旧逸見氏町家】・・宿場館・・旧問屋・・菱屋・・駅の道 −〈 バス 〉−〈近江今津〉駅

JR今津駅からバスで道の駅『若狭熊川宿』でおりる。道の駅の展示館で鯖街道や熊川宿について予習し、宿場を歩く、まさにタイムスップです。町並みの全長は1,1Km

町が時代の波に取り残されたのが良かったのか,旧宿場町には古い建物が多く残っており、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。熊川の町並みの特徴は、街道に面して平入り妻入りなどが混在し、多様な形式の建物が建ち並んでいるこれら旧趣を残す建物を生かした資料館や、さまざまな店が建ち並び、近世に戻った感覚です。街道に面した家にはそれぞれに川〈前川〉を利用した、『かわと』と呼ばれる水利場がある、なんとも懐かしい風景です。







北国街道・西近江路を歩く
         ー〔木津洟の常夜燈と〔琵琶湖就航の歌〕−

j〔新旭〕駅・・・木津洟常夜燈・・・さざなみロード・・・今津港・・・琵琶湖就航歌歌碑・・記念館・・今津駅

今日はよい天気で、楽しい歩きとなりそうです。北の今津に対して古い港であった、(古津)が訛化したという新旭の木津から北国街道の宿場町として、また、湖上交通の港、九里半街道の起点として栄えた、今津までの歩きです

。今、街道は161となり交通の激しい道となっているので、ひたすら湖をめざして歩く。温泉の湧く、別荘が並ぶ美しい風景を右手に湖畔にでる。湖上にポッカリと竹浮島が浮かびなんとも美しい。なぎさ公園として、自転車ロードあり、木道があり、良く整備され、気分のいいハイキングコースとなっている。

砂浜には、朝鮮昼顔の可愛い群れがあり、街道を彷彿とさす松並木も有り、竹浮島詣でが盛んであった頃、島まで渡れない人が拝んだと、いう二つ石があり、ミニ鳥居もあり、今もこのあたりからは、お賽銭として、投げた銅貨が多く、湖底から出るという。今津港には琵琶湖就航歌歌碑があり又記念館もある。

今津宿が大きく繁栄したのは天正11年(1583)に豊臣秀吉から『江州高島郡今津浦中』に対して下された触書で、『加越能文庫』には、『若州より往還の高荷船等の事、先々のごとく当浦へ相着ぐすべし』とあり、若狭からの荷駄を扱う独占的特権が今津の町に与えられ、今津から小浜へ至る九里半街道も発達しました。

その後、今津は文禄4年(1595)以降、加賀前田藩領になり、この独占的特権によって、元禄6年(1693)の記録では今津港の船数は108隻と、塩津の110隻に次ぐ多さで大いに発展したようです。明治4年までの約300年間、加賀藩の飛び土領としてさかえた。
加賀・越中の物資は金沢の港から船で敦賀へ、また越前の物資も陸路で敦賀に集積され、敦賀から疋田の舟川を利用して山中越えで今津へと運ばれた荷物は、ここから船に乗せられ一路、湖上を大津へとむかった。今の流通を思えば昔人は大変な苦労でしたね。




街道豆知識 その(11)

参勤交代と大名行列

参勤とは、江戸時代に諸国の大名が一定期間、江戸に滞在することをいい、この参勤交代は往復の時期・期間が大名によって定められていましたから、出発の数ヶ月前には幕府の許可状を得て家臣を帰国の道筋の宿場などに派遣し、必要な人馬数、休泊の日数や人数などを通達して本陣や問屋と交渉しました。
いわば旅行の手配です。

大人数の行列ですから宿場側としても急に来られても部屋、人馬、も不足するという事態を避けるためでもあり、大宿場であっても、同じ時期に大名が重ならないように調整する必要もあったようです。

大名行列は形式的であっても戦陣に挑むというのが建前なので、武具の装備、食料、衣類を入れる道具などを運ぶ家臣も必要で、小藩でも100人ぐらいの行列、加賀・前田家薩摩・などの大大名になるとプライドも誇示せねばならず1000人を超える大行列であった。

行列は、1日平均で10里(約40 km) 進むというスケジュールが組まれていた。しかしペルーが来航した頃になると各藩の財政も窮屈になり行列は簡素化され、本陣などの宿泊代金は次第に緊縮され、挙句には昼休みは本陣ではなっくて茶屋を利用した、借金を残していく大名もでる有様でした。


街道豆知識 その(10)

宿場の用心

宿場の入り口と出口には木戸があり、木戸の脇には、木柵か土手が張り出して、宿場を守っていた。
これは外敵などから宿場を守るためのものですが、もっとも恐れられたのは火災でした。
当時の家は草葺のため類燃しやすかったのでしょう。、井戸を掘り、池を造り防火用としたようです。


街道豆知識 その(9)

街道の管理は、掃除丁場が・・・・

宿場と宿場の間の道筋には、橋があり、並木があり、一里塚などもあり、川幅の広い大河の架橋は幕府が禁止していましたが、街道筋を横切る小川や川幅の狭い河川には板橋や土橋が架かっていた。

宿場内は宿場の人達が管理するとして、宿場外の橋が朽ちたりして修復が必要な時は(掃除丁場) がこれにあたりました。

掃除丁場は、その街道沿いの近在の村々が順番に担当し、橋の管理・修復や、並木や一里塚の管理もした。

江戸幕府は、全国の並木や一里塚を、慶長9年から整備していますが、植樹やその後の並木の管理も、全て掃除丁場の担当でした。


街道豆知識 その(8)


庶民の旅の必需品

文化・ 文政期の頃は、伊勢神宮を中心とした庶民の旅が盛んになる。
その頃に出された( 旅行用心集 )という本では、旅に出るときには持ち物を出来るだけ少なくする事としたうえで、( 道中所持すべき品の事 )として

、矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、ちょうちん、ロウソク、火打道具、麻縄

鬢付け油は、関所や、城下などを通る際に、髪が乱れないようにするためのもので、
また麻縄は旅籠で自分の荷物をまとめるために使う。当時の旅は事故や病気の処置
など、危険が伴いますので、一人旅は少なく、旅は道連れ で、二人以上の同行であった。


街道豆知識 その(7)


江戸時代の一日の行程

一般的に江戸時代の旅の一日の行程は、成人男性の場合、およそ八里から十里(約32〜40km) で歩行速度を4kmとすると、一日に約8〜10時間も歩くことになる。そのため、夜明け前に出発し、夕方、日が暮れないうちに宿に着くようにした。

(東海道中膝栗毛) の弥次・喜多の二人が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚宿ですが、2日目は戸塚から小田原まで約40km、3日目は小田原から箱根まで約30km強を歩いている。東海道の場合は、日本橋から三条大橋までの距離が約492kmですから、一般的には徒歩で13日から15日後かかりました。1日平均33kmも歩いたことになります。


街道豆知識 その6 (街道の変遷)


宿場について

宿場は街道の拠点となっlたところで、古代の(駅)を中心に町が開かれた。       宿場は、旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりする他に、最も重要な役割として、公用の荷物や通信物を、次の宿場まで運ぶという業務を担ました。そのために宿場は、本陣、脇本陣、 旅籠 などの宿泊施設と継ぎ送り業務を行う問屋が中心となっている。




街道豆知 その5 (街道の変遷)

街道の道幅

街道の並木

並木は東大寺の僧が駅路の両側に果樹を植える事を奏上したのが始まりで旅の空腹を満たすためと、また緑陰や風雪除けのために広葉樹が多く用いられた、信長以降は松や杉が多くなり、家康も諸国の街道の両側に松や杉を植えるよう命じている。

雪などで道が分からなくなったときに並木に沿って歩けば迷うことがなく、道標の役割をもはたした。





街道豆知識 その4 (街道の変遷)

街道の道幅
 
    
家康の遺訓といわれる(家康百箇条)に、江戸時代の道路政策や道路の種類・等級に関するものが記され、道路の道幅が記されている。

大海道6間(約10,8m)・小海道3間 (約5,4m)・横道2間(約B,6m)・馬道2間(約3,6m)・歩行路1間(約1,8m)作業道3尺(90cm)東海道、中仙道などの五街道は大海道(海道は街道の古称)ですから、石畳が敷かれ、砂を敷くなどして平坦にする工夫がほどこされた。

国道という言葉が使われたのは、明治9年以降のことで、明治政府は太政官通達によって全国の道路を、種類・等級・ 幅員などで国道、県道、里路の3種類とし、それぞれ一等、 二等、 三等、に分けました。この時に(街道)という言葉が消えた。




近江神宮鳥居前〜南滋賀廃寺跡〜百穴古墳〜滋賀の大仏


近江神宮鳥居前から北えむかう。南滋賀の住宅地にはいり、しばらく行くと南滋賀廃寺跡がある。公園になっている。戦前2度の発掘調査で塔・金堂などの遺構がみつかりサソリ瓦などが出土した。このあたりは現在の京阪(南滋賀駅)と(滋賀里駅)を中心にした一帯が(滋賀里)と呼ばれている。この辺りからは、山に近いところからは縄文時代晩期の集合遺跡や土器、貝塚など、また湖に近いところからは弥生時代前期から平安時代の遺跡が多く見つかっており、前回歩いた大津京あたりからこの辺りにかけた一帯は古代〜平安の集合遺跡、すなわち文化が早くから花開いていたことが想像されます。

百穴古墳群

渡来系の人々を埋葬したと思はれる円墳の古墳で6世紀後半につくられた群集墳で、消滅した分まで含めると古墳の数は100基におよぶといはれる。なかには墳丘がくずれて、石室が露出している古墳もある。1400年以上たった現在も、死者の場所の名残を留めている。


滋賀の大仏

平安時代に京都との行き来が活発になる志賀坂越え(山中越え=滋賀里から京の白川に越える峠道)の入り口に座しています。高さ3.5メートル、巾2.7メートルの花巌石に彫られた高さ3.1メートルの阿弥陀如来座像で、13世紀頃の作といわれている。ゆったりとした雰囲気が漂い、心をながませてくれる。

この道は家並みがきれた処から右手に川が流れ竹薮があり谷川に沿って行くのだが
人気がなく一人歩きは少し怖いが昔の旅人を夢想するにはいいロケーションです。また人々によって良く管理されている。





街道豆知識 その3 (街道の変遷)


     江戸時代中期では、7つの京街道が 確認されている
     京都へ向かう道は全て(京街道)とよばれた。ちなみに
     
大阪に向かう道は(大阪街道)

大和に向かうと〔大和街道)

京都と大阪を結ぶ京街道は大阪街道でもあったわけです。
淀と伏見に城を築いた豊臣秀吉は、軍事的にも時間短縮を図ろうと道の整備にとりかかった。

関が原戦に勝利した徳川家康が発布した(伝馬朱印状)によって東海道が、つながり、江戸日本橋から大阪京橋までが東海道五十七次となる。



 JR西大津駅〜大津京跡〜宇佐八幡宮〜近江神宮

1300年以上の昔、飛鳥から遷都され、わずか5年の短命に終わった大津京。数多くの古墳や遺跡を手ががりに幻の都の姿を思いながら、この道を歩きたいと思う。

西大津駅の裏手に出れば県道に出会う。この南北方向の道が天智天皇が置いた大津京の中軸線である.

北へ進むと錦織2丁目の交差点でこの一帯が近江大津京遺跡である。
周辺は住宅地となっており往時の面影は全くないが、部分的な発掘調査により、付近には遺跡の解説板が7地点にあるので、それを頼りに散策する。

大津宮跡
ここに明治時代に建てられた( 志賀宮跡 )碑がある。
大津宮の所在地に付いては、粟津・南志賀・滋賀里・錦織などの諸説があった。
1974(昭和49)年、ここから宮殿の門跡らしき遺構が発掘され、周辺でも建物遺構がみつかり、大津宮跡と判断された。現在、正殿・門・回廊などが十数地点で確認されている。

宇佐八幡宮
源 頼義が宇佐山に宇佐八幡を勧請して、創建されたと伝えられる。ここから、さらに 宇佐山の頂上に登ると織田信長が家臣森可成に造らせた宇佐山城址がある。






近江神宮
近江神宮は歴史が新しい。1940(昭和15)年、紀元二千六百年を記念して、滋賀県内外からの勤労奉仕によって、天智天皇ゆかりの地に創建された。

境内には、大津宮で初めて漏刻台が設置されたという故事から、水時計が復元され、古今東西の数百点の時計を陳列する時計博物館がある。また 
毎年1月初旬、全国的なカルタ大会が開かれ、6月10日には漏刻祭が行われる。
    




 大津歴史博物館〜法明院〜京阪皇子山駅
 (06/6/20)

今回は街道を外れて、博物館の裏手に入り口のある自然歩道をあるきます。

法明院までの間に弘文天皇陵、新羅善神堂、新羅三郎義光、の文化財が在り森の中ですが、道は整備されている。その昔、都が近江へ遷都された頃、この辺りの在りようを、思い描きながら歩く、なかなか楽しいものです。

次回はいよいよ近江京跡に足を踏み入れることになる。


●大津市歴史博物館

平成2年の開館以来、近江の先人たちの足跡をしるす数多くの文化財や歴史資料を収集、保管、調査研究している。

また博物館は、 緑豊かな長等山の樹林を背景にし、眼下に琵琶湖や対岸の三上山を一望できる景勝地にあり、周辺には、多くの史跡があり格好の歴史散策コ〜スです。


●法明院

江戸時代の享保10年に天台密教戒律の修行道場として創建された。
園城寺の北別院のひとつです。

雄大な琵琶湖や対岸の三上山を借景とした庭園や日本伝統文化、とくに美術界の恩人である、アメリカ人、アーネスト・フランシクコ、フエノロサが眠るお墓がこの寺院にある。桜の時季 紅葉の時季には多くの観光客がおとずれる。


●フエノロサってどんな人?

アメリカ人で明治11年8月9日、哲学、政治、経済、社会などを担当するために、東京帝国大学へ招かれました。

彼はハーバード大学を卒業後、しばらくボストン美術館付を属絵画学校に籍をおき、美術教育家の道を模索していたこともあって、日本美術には、特別の関心を寄せ、文部省博物局の職員、大学の同僚狩野友信らの優れた鑑識家達の友情に支えられ鑑識家としての実力を養い、明治17年(1884)には、狩野永深理信の名号を授与された。

当時、日本の美術品は、奈良興福寺の五重塔が10円で売りに出され、他の美術品がどんどん海外へ流出した。

関西出長時には法明院の茶室,時雨亭で寝起きしていたが岡倉天心の受戒の勧めもあって明治18年に得度し(諦信)の法号を授かる。

その後、アメリカへ帰る直前の明治41年(1908)ロンドンで心臓マヒのため55歳で急死。手帳に書かれていた遺書に  (I want to come back to Miidera ) によって、遺骨の一部が彼の心の故郷だった法明院に埋葬された。となりには、終生の友であったビゲーも眠っている。




 ●歴史の道・ 自然の道2
 (06/5・10)



京阪電車、三井寺駅を降り立って,鹿関橋から見る疎水沿の桜のトンネルと突き当たりの三井寺全山は桜、さくら、サクラである。

花の頃の美しさはこの世のものとも思えぬ 特に夜のライトアップ時は人は皆優しく
なる。


昔、 疎水を屋形船が行き来していたらしい、屋形船が消え、今はマンションが立ち並び昔日の面影は無いが。。。湖と山の自然美をつなぐ疎水の周辺は今も落ち着いた素敵な環境で、当時の心像風景を残している。

疎水がトンネルに入る突き当たりの三尾神社から三井寺に向かう道は、自然のシャワ〜をあびる格好の散歩道である


●三井寺

正式には長等山園城寺、天台寺門宗の総本山、広大な寺内には天智、天武、 持統天皇 三帝の誕生の際に産湯に用いられたという霊泉がが在り 今も湧き出ている清水があり、弁慶が引いて来たという鐘があり、多くの文化財がある  ゆっくりと のんびりと 散歩したいところです。


●琵琶湖疎水

琵琶湖取水口で、ここから疎水は山科蹴上を経て京都にいたる琵琶湖疎水の幹線は、蹴上から鴨東運河・鴨川運河(インクライン2ケ所)を通り、伏見で宇治川に直結する。約20キロ、第二疎水、分線を含めると総延長30キロにおよぶ。 




 ●歴史の道・ 自然の道2
 (06/5/10))

街道豆知識 その2 (街道の変遷)

街道は元々国家(天皇家)が管理していましたが、平安時代の後期になると、国家財政が破綻し始め、大道の整備も地方の豪族などの領主に任される、領主達は駅や道の整備に必要な経費を関賃で賄おうと、全国の街道筋には関所が乱立しました。 これを収束させようとしたのは織田信長でした。

天下統一を目前にした信長は、諸国の統一を行う上で街道の大改修をおこないました。しかし本能寺の変で信長は倒れ、これを秀吉が受け継ぎ、最終的には関が原の戦いによって天下を手に入れた徳川家康へとゆだねられました。

家康は街道の道幅を広げ、一定区間ごとに宿場や一里塚を設置。宿場には伝馬が備えられ、街道沿いには盛り土をして松並木を植えました。




 ●西近江路, 湖辺の道
 (06/4/20) 
湖辺の道は、琵琶湖の西側、長等、比延、比良、の山並みの麓をほぼ湖岸に沿って北え向かう一本道です。
古代の官道からの歴史を有しているだけに見所が多く、いまだ、世に隠された歴史街道といわれている。この道を尺取りでぶらり散歩して見たいと思います。

札の辻・・・・長等公園・・・・・長等神社・・・・琵琶湖疎水・・・・三井寺

街道の入り口であるこの辺りは、開発が進んでいて、昔日の面影はあまり残っていないが・・・
今も道路工事が進められている。でも静かなたたずまいの町並みです。




●札の辻

街道筋の目立つ場所に、 さまざまな情報を掲げた掲示板<高札>が立てられた交差点という意味で、 この札の辻で南北に通じるのが東海道( 京街道 )で、西へ折れて三井寺方面へ向かうのが西近江路です。


●長等公園

桜の名所で春にはぼんぼりが灯され花見客で賑わう名所で見所は 平忠慶の歌碑

「さざ波や滋賀の都は荒れにしを  むかしながらの  山桜かな」

と読まれた。
自然観察の森もあり、長等創作展示館 三橋節子美術館がある。


●小関越え

日本三関の一つ逢坂関は、京都と東国の出入口として、旅人で賑わったところです京都、山科への近道で、山の中は幅約2メ〜トルの古い街道路が残り、山科側は疎水に沿う桜並木の道で、今は格好のハイキングコ〜スとなっている。


●長等神社

大津市指定文化財になっている。裏山は三井寺となっている、馬主神社も中にあり、競馬好きが密かにお参りしている。




 ●歴史の道・自然の道
 (06/4/20)

街道豆知識 (街道のはじまり)

国家や地方の行政官によって整備された道を官道といい、始めて日本に設置された官道は、難波宮から飛鳥京に向けて二上山を越える道、現在の<竹内街道>です。

難波宮より京に至る大道を置く )と言う、命により東に延び、わが国はじめての官道、が国道一号線と、なりました。

大和朝廷の支配が及ぶ全国を都(平城京、平安京 )周辺の畿内五国と、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分しました。

北国地方は  北陸道  
東国は     東海道  東山道  
西国は     山陽道  山陰道  
和歌山熊野方面は、 南海道
四国九州地方は、西街道とエリアで分け、畿内の五地域である< 五畿 >を加えて、それぞれの地方に向かう大道が整備されました。

西暦701年に「 大宝律令 」の制定によって、現在の都道府県にあたる{ 五畿七道 }が決められ、官道が整備され、七道の各国の国府はそれぞれ同じ名の幹線官道で結ばれた。 これが街道の始まりです。
 

ぶらり散歩2008