魔女の部屋トップ

 
【ぶらり散歩2008】・・・2008年に書いたものです。

ごゆっくりどうぞ・・・※日記は新しい順になっています

琵琶湖の畔に長く住んでいながら、琵琶湖に付いて何も分かっていない事にきずき琵琶湖をぐるりと、巡りたいとおもっている。

文化サロンに歩く事の好きな(街道歩き 同好会)があり、歴史の勉強をしながら主に街道筋の人々の暮らしの後が今に残っている所を見、遠く先人達の足跡をたどる、素敵な講師の話しを聞きながらの歩きは、楽しいひと時である。今回は東海道から別れて西国街道を歩く、その報告をしたいと、思います。


魔女のぶらり散歩

11月歩く
     ーびわこの大仏 と 上村松園ー

JR長浜駅・・平安山良尋寺(びわこ大仏)・・福田寺(永沢御坊)・・田村駅

天気は曇りで歩きには気持ちの良い日和です。ここ長浜には何回かきていますが、まだまだ見たいところがあります。

もともとは今浜と呼ばれ、京極道誉の出城があった湖岸に、新たに城を築き、町作りをはじめたのは羽柴秀吉。秀吉は信長の『長』 の字を貰って今浜を長浜に改め、築城は天正2年(1574)、小谷城落城の翌年でした。

町の中央を北国街道が通り、その往来で町は発展します。本能寺の変後に行はれた清州会議で、長浜には天正10年(1582)に柴田勝家の甥、勝豊が6万国で入城、

1585~1590年は山内一豊、慶長11年(1606)には内藤信成(徳川譜代大名)が5万石で長浜を治めました。大阪の陣後に長浜は彦根藩領となり廃城となり、建物・石垣の殆どは解体されて彦根城築城のために利用された。


良躊寺(りょうちゅうじ)

長浜の中心部から南へ半里ほどのところに、琵琶湖を背に大仏さんがすっくと立っておられます。
大仏は昭和7年に開創700年を記念して、コンクリート製で造られましたが痛みが激しく、平成6年に現在の青銅製、高さ28m、重量約80tの大仏が鋳造されました。

境内には芭蕉の『四方より花咲き入れて鳩の海」の句碑があり、彦根は芭蕉七哲の一人、森川許六の出身地で、当寺に隣接していた近江宮川藩代官所の代官が、許六の孫弟子の松菓五陰であったという因縁から、当寺では芭蕉を偲んで度々句会が開かれていたといわれている。

福田寺によるよていであったが、今大修理が行われていて、入ることは出来ないとのことで、上村松園ゆかりの地は次回訪ねたいと・帰路に着く。



魔女のぶらり散歩

ー戦国の道、 国友鉄砲の里ー

JR『長浜』駅ー<バスorタクシー>国友鉄砲の里・・・姉川古戦場跡・・・<バス>−<長浜>駅

10月も終わりに近いのに、空はあくまで高く、青く、しかもここは湖北である。湖北はこの時季、暗く、どんよりとした空だと思い込んでいた。地球温暖化でこんなにも、空が青いのだろうか?まずはバスでまずは国友鉄砲の里へ、・・町は往時のおもむきを残してしっとりとした落ち着きを見せており、今も、火薬製造の店が営業をしており、鉄砲職人の大きな屋敷跡があり、静かな美しい町並です。まずは[鉄砲の里 資料館]へ・・鉄砲のできるまで・・国友が生んだ科学者・・文化人の紹介がある。

● 鉄砲の伝来と普及

一般に『鉄砲伝来』というのは、天分12年(1543)、種子島に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人が所持していた火縄銃の試射してみせたことに始まる。当時種子島に在島していた堺の商人・橘屋又三郎と根来憎の津田算長は、これを本土に持ち帰り、根来と堺の刀鍛冶たちがこの鉄砲を研究して鉄砲鍛冶がうまれた。

実戦での鉄砲の最初の使用は薩摩島津家で、以来、九州・中国地方の戦国代名が使い始め、やがて織田信長が天正3年(1575)に甲斐武田氏と繰り広げた『長篠の戦い』に集約される有効活用で威力をみせ、鉄砲を主力兵器とする軍事革命がおこる。
それ以降、鉄砲の需要は増え、もともとの刀鍛冶たちが鉄砲職人へと変わり、集団をつくる。代表的な集団は、堺、根来、国友、日野『近江)で、中でも、堺と国友は、織田ー豊臣ー徳川と、三氏に兵器・大砲を供給し、年寄りを中心とした組合組織を作り、日本の一代生産地となる。

● 国友鉄砲の里

国友は長浜の北東5キロの姉川の畔の町です。戦国時代から江戸時代にかけての日本有数の鉄砲生産地で、日本に鉄砲が伝来した天保12年(1542年)の翌年には、すでにここで鉄砲の生産がはじまっている。

戦国の戦を背景に信長・秀吉・家康らによって保護され、とくに家康は、国友に代官を置き、幕府御用鍛冶に指定した。

国友の伝統は江戸時代の後期に国友一貫済という科学者を生み、オランダ製気泡の数倍の威力ある高性能空気銃を完成させたり、また天体望遠鏡の作成など、また自分で作った望遠鏡による15ヶ月間の太陽黒点の観測記録は、世界の天文学史上でも貴重な資料とされている。

● 姉川合戦

織田信長は天下統一を目指して進軍しますが、その勢いを阻もうと、室町幕府と諸大名は(信長包囲網)と後に呼ばれる包囲戦をしきます。そして金ヶ崎の戦い・姉川合戦が繰り広げられる。

その姉川は国友の里のすぐ後ろを流れる滋賀県下最大の河川です。最も激戦が繰り広げられた(野村)は国友から上流約3キロの地にあり、4時間に及んだ激戦の両軍戦死者は2500人とも、それ以上とも伝えられている。

野村には血川という川が流れていたといい、野村の西の三田には今も血原という地名が残されているという。また、信長は、この姉川合戦で、国友銃を使った二段連撃ちを行い、この成功が後の長篠の戦いでの三段連撃ちに活かされたといわれている。



魔女のぶらり散歩

JR『虎姫駅』・・・五村別院・・・唐国宿・・バス・・長浜駅
9月歩く
沖縄に台風がきているとのことで、今日の歩きは楽かと思ったが・・なんと強烈な暑さである。虎姫駅から五村別院までは静かな町並みである。暑さのせいか町は静まり返っている。再び本街道に戻り、国道8号線に沿って姉川(水が少ない)を渡って唐国へ・・

● 五村別院 (ごむらべついん)

 正式には浄土真宗東本願寺五村別院といい、本願寺第十二世教如上人開創の寺で本願寺は、蓮如上人(第八世)が大阪に石山本願寺を開き、蓮如の玄孫である証

如上人の長子・頑如上人の時に最盛期を迎えました。
その事もあって信長に包囲されて攻められ、顎如は和歌山へ落ちていました。秀吉の時代になって赦され、和解して大阪に御堂を建て、さらに京都に本願寺を開きます。

長男・教如は信長包囲網の時に強硬派だったために、顎如が没すると、穏健派だった三男の惟如が本願寺第十二世を継ぎます。それで教如は彼を支持する人達とともに別に本願寺を起こし、これが教如の流れを汲む東本願寺と、惟如の流れである西本願寺の分立となる。

そんな経緯の中で、惟如に後継が譲られたときに失意の最中であった教如を、湖北の門徒宗が迎えて聞法道場として開かれたのが五村御坊です。現在は、東本願寺五村別院とされており、東本願寺の始まりとして重要な歴史的意義を備えたお寺で、重要視されている。

 唐国宿(からくにしゅく)

ここは正式な宿場ではなく、この地は、山内一豊がはじめて武将として所領したところで、山内一豊は、羽柴秀吉の家臣でしたが、信長の越前朝倉攻めから退却するときに、しんがりを勤めた秀吉について奮戦し、

左のまなじりから右の奥歯にかけて矢が貫通するという大怪我を負いながらも敵将・三段崎勘右衛門を討ち果たしたという、秀吉はこの『金ヶ崎の大退却』で、信長から小谷城を貰い、長浜に新たに城を築いて領主となる。

その時に、山内一豊は秀吉から唐国400国を拝領します。南に姉川を抱き、北東に小谷山・虎御前山を望み、秀吉の領地・長浜とはわずか数キロを隔てた位置で、北国への押さえとして一豊が選ばれたのは、その信頼がいかに厚かったかをものがたっている。一豊が待望の領主となり、戦国武将としての出発点となったのがここ唐国でした。




魔女のぶらり散歩
 8月歩く

JR 『河毛』駅ー<タクシー>−小谷宿(江戸期道標など)歩き・・・平塚・実宰院・・・浅井町・内保ーバスー『虎姫』駅

今日も厳しい暑さである。天気予報では湖東は雨・雷の注意予報が出ていたが、空を見ている限り、ハズレか?小谷宿は小谷城の城下町で、静かな集落で後方に小谷城址、右前方に虎御前山とやはりこの辺りは、人影もなく、なぜかユリの花が多い、ササユリ・ヤマユリ・鉄砲ーゆり・・あの小谷城落城のとき、お市さまと三人の姫達はどんな思いでこの集落を逃れたのだろうか?と思いを馳せながら歩く。

★  平塚 実宰院
ここは浅井長政の姉、昌安の庵であったお寺で、小谷城落城直前にお市は三姉妹を連れてこの寺に逃れたと言う秘話が残されている。

長政の姉昌安(あく)は、身長が五尺八寸(176cm)、体重28貫(105s)あったということです。当時としてはかなり大きな女性で、嫁すこともなく、19歳の時に出家得度して昌安見久禅尼と名乗り、寺号を実才庵と改めました。長政は、姉はすでに昌安見久禅尼として俗世を離れた身分ゆえ浅井氏が滅んでも害が及ぶことはないと、お市と三姉妹の行く末を、姉に託したのかもしれない。お市はその後虎御前山の兄、信長のもとへ参じますが、三姉妹は浅井の血筋を引くゆえでしょう、そのまま当寺に匿われたと伝えられている。

残党狩りで信長軍が寺改めにやって来たときには、大柄な見久尼は二反の生地で作った大法衣の袖のなかにすっぽりと三人の娘を包み込んで隠し、難を逃れたという。又彼女は子育ての名人だったらしく、母お市がその後、再婚して、柴田勝家とともに死んで、全くの孤児となった三人の娘を武士の娘として立派に育て上げ、それぞれの役割を将来果たしえたのも、彼女の養育のお陰だったのかもしれない。

長女茶々は豊臣秀吉の側室淀君となり、二女お初は代名京極高次夫人となり、三女お江与は徳川秀忠の夫人となり、それぞれ日本の歴史にその名を残した。またその後 実才院護持のために豊臣・徳川歴代から庵料として五十石の朱地を受けている。

やはり天気予報は的中して、いきなり、暗くなり、大粒の雨が落ちたと、同時にピッカーとひかり、雷と大雨で、すごいスコールとなる、琵琶湖の北はこんな降り方をするらしい。雨宿りの後、落雷で電車が止まっていませんように・・と祈りながら、バスで虎姫駅へ・・



魔女のぶらり散歩

7月歩く
JR 『高月』駅・・馬上(まけ)宿・・小谷宿・・小谷城址

今日は真夏日で、気温は34度をさしている。本当に暑い。左に高時川、右に国道(368)を見ながら歩く、ただ歩く。熱中症の初期症状は、どんな症状だろうか?と思いながら歩く。悪い事には、カメラは電池切れを知らせている。

● 馬上(まけ)宿〜小谷宿へ

高時川を越えると北国脇往還の間の宿である馬上宿です。
高時川は、栃の木峠を起点として湖北地域を南に流れ、長浜市内に入って姉川と合流します。そのため姉川に対して妹川とも呼ばれている。

馬上宿はこの川を東に渡ったすぐの宿ですが、往時は徒歩渡りであったために、『渡しの宿』として賑わったようです。高時川から引かれた水が還流し、水車風景も見られる風情ある街並みです。

● 小谷城

日本五大山城(春日山城:新潟県上越市・・七尾城:石川県七尾市・・観音寺城:滋賀県安土町・・月山富田城:島根県安来市:小谷城)

やっとの思いでたどり着いた小谷城址の麓にある小谷城資料館は定休日である。登城することはあきらめ、
木陰で小谷城の歴史、浅井長政と信長、お市の方、秀吉、三人の姫達、『金ヶ崎の大退却』から姉川合戦へそして小谷城落城までを講師の講義を聞き、城へは後日改めて登ることとして帰路に着く。


魔女のぶらり散歩

6月歩く

 JR 『高月』 駅・・・高月町出会いの森・・渡岸寺参拝・・雨森ー<バス>−『高月』 駅

梅雨の中休みで、夏日を思はせる強い陽射しです。高月町図書館に井上靖の小説『星と祭り』で渡岸寺や湖北の観音様を一躍有名にした、井上靖の記念室があるのですが、公共施設は休館とのこと誠に残念、もう一度来ましょう。

駅付近の北国街道(東近江路)を少し歩き渡岸寺に向かう道の両脇は可愛い草花が植えられ、また豊富な水量の水路があり、鯉や金魚が泳ぎ、水車もある、人影もない、いつか見た映画の中の風景の中にいるようだ。




● 渡岸寺
渡岸寺は現在 向原寺(真宗)の飛び地境内となっているが、観音堂の収蔵庫に、土門拳の写真や井上靖の(星と祭り)、水上努(湖の琴)で全国的に知られるようになった十一面観音菩薩が安置されている。

元々、渡岸寺と呼ばれた大刹があり、観音像もその寺のものであったようです。開基は不詳ですが、寺伝によると、天平8年(736)頃に疱瘡が大流行して死者が相次ぎ、聖武天皇から除災を命じられた泰澄が十一面観音を刻み、一宇を建立してその憂いを絶ったということです。
延暦20年(801)に、最澄が七堂伽藍を建立して栄えますが、浅井攻めの時に柴田勝家によって堂宇は焼失。しかし、観音像は村人によって土中深く埋められて守られ、戦火をのがれたという話は有名です。

● 雨森芳州

渡岸寺の北西に北国脇往遍の木之本宿と小谷宿の<間の宿>である『柏原宿』があり、木之本宿寄りに雨森集落があり、集落の名と同名の雨森芳州は、湖北の豪族雨森氏の末裔で、集落名はこの豪族に由来しており、


寛文8年(1668)この村の医者の子として生まれ、12歳で京都に出て医学を学び、さらに18歳のときに江戸の儒学者(朱子学)・木下順庵の門に入り、順庵の推薦で、当時中継貿易で財力を持ち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、長崎で中国語を学び元禄5年(1692)、対馬に赴任します。

その後、朝鮮方佐役(朝鮮担当補佐役)を拝命し、これがきっかけで朝鮮通信士に随行して第6代徳川家宣の将軍就任祝賀式に参列するなど、朝鮮国との交流促進に努め、朝鮮事情や朝鮮文化の研究につとめてその著書を多く残した。

豊臣秀吉の『朝鮮の役』から約100年後の事で、諸事情を考えると芳州の苦労が想像できますが、現在、集落内にある雨森芳州庵は、『東アジア交流ハウス』として開設されている。




魔女のぶらり散歩
4月歩く
ーー 『長浜曳山巡行』 北国街道長浜宿ーー

JR『長浜』 駅ー長浜八幡宮・・・曳山博物館・・長浜城址(歴史博物館)
冬の長浜に来た時・空はどんよりと曇り、寒く暗い街だと思ったが、なんと今日は、空は晴れ渡り、街は晴れやかに、賑わっている。お祭りだ。まず駅を出て、秀吉と石田三成出逢いの像を左にとると

長浜城址へ・・秀吉がこの地に築城し、豊臣氏滅亡とともに姿を消した長浜城が市民の浄財によって再興されたのがS58年。現在は、長浜の歴史博物館となり、周りは公園となっている。今、桜が満開で・遠くには、琵琶湖八景に数えられる竹生島が浮かび、なんとも、美しいところです。

まずは館内へ・・階ごとに秀吉をはじめ長浜ゆかりの人物や長浜の歴史・文化を紹介されている。5Fのパノラマ展望台へ・・回縁が付いていて、に関が原古戦場・ 姉川合戦場・ 西に比良山・沖ノ島・安土城祉・ に彦根城・佐和山城址・雲仙山・・に小谷城址 賎が岳合戦場・・山本山と3600度の大展望です。ここは昔、大変な戦場だったのだ・・戦争はもっとも弱い女・子供が泣くことになる。今のこの平和を護らねば、と強く思う。

長浜八幡宮・・へここで長浜曳山祭りのメーンイベントの子供歌舞伎が曳山の上で演じられている。役者は全て男の子で、祭礼一ヶ月前から稽古が始まると、いう。なんと一ヶ月で大人顔まけの演技が出来るとは・・・曳山博物館で子供狂言の歴史や長浜の真髄を知る。 大通寺・・黒壁スクウェア・・長浜鉄道スクエア・・と行きたい、見たい所があるが・祭りの主役である子供歌舞伎を追っかけて、時間が無い。短い時間では本当の長浜を知る事は出来ないようだ。
これから時間を作って長浜通いをしよう。


魔女のぶらり散歩
2008/3月歩く

---万葉集に詠われた『あじかまの塩津』 −

JR『永原』 駅ーバスー『あじかまの里』−塩津散策・(常夜灯公園・町並み)・<バス>・JR『木ノ本』 駅

先月のびっくりするような銀世界とはちがい、紫外線の強い春日和で、今日の<歩き>は塩津宿ですが、車が激しく行き交う道なので少ししんどい歩きになる。JR『近江塩津駅』は滋賀県最北端の駅で、旧街道である塩津街道の道筋を踏襲している。駅舎表の木製看板には、『近江塩津駅 海道・あじかまの宿』と彫られている。『あじかま』とは万葉集に詠われた塩津の形容詞だそうです。

味鎌の塩津を指して漕ぐ船の名は告りてしを逢はざらめやも。
『味鎌』 は、あじという鴨のいる水辺を指し、その鴨が沢山いたので古く塩津の港の名物となり、枕詞、また(あじかま)と言えば塩津 を指すようになったようです。

塩津交差点の北側に、天保5年(1834)健立の大ぶりの常夜灯があり、その傍らに紫式部の万葉歌碑、がある。

                 

『知りぬらむ往来にならす塩津山世に軽る路はかろきものぞと』


まだ若い紫式部が長徳2年(996)9月に、父藤原貯為時の越前武生赴任に伴って下向したとき、大津から船で白髭神社をすぎて塩津港へ上陸し、ここから陸路で塩津街道を越前へ向かう時の歌、と伝えている。

常夜燈の辺りから東へ、旧街道が通っている。塩津宿は交通の要衝でしたから、往来の激しかった頃には旅館が10軒あまり並んでいたそうですが、今はひっそりとしています。木ノ本方面へ少し行くと、塩津神社があり、本殿は花や鳥の透かし彫りの彫刻が社殿を飾っている。ここからバスでIR木ノ本駅へ・・・トンネルを越えるとバス右側車窓にしずケ岳が見える。戦国時代に思いを馳せながら帰路に着く。





魔女のぶらり散歩

2008/2月歩く

ー海津大崎と大浦の『丸子船』ー 

JR『マキノ』駅ー大浦『丸子船の館』・・・JR『永原』駅

二日前の大雪でここは一メートルの積雪で、歩くのは無理ということで、タクシーで海津大崎まで行く。幹道は除雪されていて誰もいない大崎は、琵琶湖の青を前にいちめんの雪景色はまさに夢の世界である。

海津の町の東外れから海津大崎辺りまで、4Kmにわたり約600本のソメイ吉野の桜並木がつずいている。春には絢爛豪華な景観を見せて『日本の桜名所100選』にも選ばれているが・・なんと、かわいそうに雪の重さに耐えかねて多くの枝が折れている。樹齢70年だという。
大崎観音(大崎寺)には雪のため行けず。花の頃来たいと、思う。



丸子船の館

琵琶湖の交通を支えたのが丸子船で、北国からの物資を敦賀で陸揚げして峠を越え、湖北の港から再び船積みして大津・堅田などえへ運ぶ『下り荷』、またその逆の『上り荷』が行き交い、琵琶湖には小さい港も含めると100以上の港があったという。琵琶湖水運、物資輸送の歴史を伝えるのが当館で、丸子船も展示されている。《雪の中ご苦労さんです、この雪で琵琶湖は大変喜ぶとおもいます。》と館員さんの言葉に琵湖と共に生きる人々の心意気に感動//



魔女のぶらり散歩

ー古代三関の一つ、愛発(あらち)関のー

JR 『新疋田』 駅・・深坂古道・・愛発関跡・・敦賀運河遺構・・疋田宿散策・・新疋田駅

この辺りまで来ると、一人では決して来れない町・村だと思う、先生に引率されての遠足と、いう感じです。161号線は激しい車で、一列に並んで歩く、先生の講義を聞き思いを昔日に馳せながらの歩きである。越前国一番目の宿場が、古代の『愛発関』があったとのことだが、今では小さなトンネルを抜けたところに愛発中学校があり、その学校名が古代の関名を今に伝えている。

また疋田宿には珍しい舟川遺構が残され、町を横断しています。約2.8mの水路で、京都の食糧を確保するために敦賀児屋川(こやのかわ)舟溜まりから疋田舟溜りまでの間を荷物を載せた川舟を搬送させていました。昔は疋田ー敦賀を結んでいた水路は、国道整備によって今は暗渠になっている部分が大半で、唯一、疋田宿の宿場を彩る風物詩として、また貴重な歴史遺産として残されている。



七里半街道

織田信長が柴田勝家に命じて北国街道(東近江路)を整備するまで、越の国と京を結ぶメインルートだった西近江路・・峠には、鈴鹿関(近江と伊勢)・不破関(近江と美濃)とともに古代の『日本三関』の一つだった愛発関(あらちのせき)という、関所があり、近江と越前の境にあって畿内を護っていました。国境の峠越えは<愛発越え>とも呼ばれた。海津ー山中峠ー敦賀の距離が七里半であったことから、七里半街道とよばれた。


魔女のぶらり散歩


八日市大凧会館〜五個荘雛人形めぐり

友人にさそわれて、ホテルが作った、オリジラル、バス旅行に行く。少人数でゆったりとした旅で、高速でアッという間に大凧会館です。。百畳の大凧は一階から二階の吹き抜けの壁に掛けられている。誠に圧巻です。

大凧は子供の出生を祝って5月の節句に揚げたのが始まりと言われている。最初は、小さな凧でしたが村々の対抗意識が強くなり、除々に大きさを競うように、なり明治15年には畳240枚の大きさになったそうです。揚げるのに適した広大な沖野が原があったからでしょう、また、成人式には20畳敷大凧が揚げられる。

ここには世界の凧も展示されていて、インドの非常にリアルなコウモリ凧など珍しい凧が展示されている。ビデオで大凧を揚げる映像は、一見の価値ありです、百畳の大凧を揚げるのに一畳一人の人数が必要という。


ガイドさんの案内で雛人形巡りへ・・『てんびんの里』として知られる近江商人の町五個荘・日本の原風景がここに有り、時代劇にもよく出てくるこの風景、まさにタイム、スリップだ。立派な白壁の蔵屋敷が建ち並び、鯉が泳ぐ水路が巡らされている。

屋敷は江戸から明治期に建てられた、火事が起きたときに延焼を防ぐ工夫など屋敷には様々な仕掛けがあり、また、雛人形は江戸の文化を代表する各時代に作られたものをそれぞれ家で大事に守ってきた家宝雛で、時代ごとに顔の様相や着物の色柄、調度品などが全く異なる。

女の子には、お雛様・・男の子には、大凧と大事に大事に育てられたのですね・・それにしても親が子を殺し、子が親を殺す、今の世相を思うと悲しくなりますね・・


魔女のぶらり散歩

一筆乗車 《琵琶湖一周》

お正月を何もしないで、過ごし、明日から仕事が始まるとなると、この鈍った体をなんとかしないと、以前から乗って見たいと思っていた一区間で琵琶湖一周を実行する。

まず大津駅から山科までの乗車券を買い、東周りをする長浜行きに乗る。車内はお正月らしく何となく華やいでいる、長浜で乗り換える。私と同じ目的らしい親子ずれに会う、あまり待つ事なく、近江塩津行きに乗る。ここからは手動である、窓の外は雪に覆われた冬景色で、さすがに湖北は豪雪地帯です。

暖かい車内で、しかもゆっくりと冬景色を楽しみながらの電車の旅は至福の時です。近江塩津では20分の待ち時間です。さすがに寒い。ここはホームが高い所にある、何故だろー?細く長い階段を下りていくと改札には誰もいません。無人駅?さきの子供ずれの親子が雪合戦をしている。外には出られない決まりのはず・・でも少しの間駅の周りを楽しませてもらいました。


次はここで降りて歴史の道を歩きたいと思う。時間どうりに電車がきて、これから湖西を回って山科へと帰る。雪はだんだんと消えていきます。琵琶湖は見えず、山なみを楽しみながら、少し眠りながら、山科着、4時間弱の旅でした。春・夏・秋・冬と乗り、又一つ一つの駅に降り,そこに住む人々の暮らしぶりや、琵琶湖を見たいと思う。

魔女の部屋トップ